マイラブ豊かな人生

思い出探しと日々雑感

奇跡を願う

先日眼科を受診してきました。

眼科にはもう10年近く通っていて、

車も3年前から運転していません。

最近ますます物が見えづらくなって来ていました。

先生から、失明は今すぐではないけど、少しづつ

視力は低下して行くでしょう。

自分の身のまわりのことができるくらいの視力は

残る可能性はあるかも知れませんと言われました。

かなりショックでした。

次から次へと病が襲ってきます。

奇跡は起きないかなぁ~と思う日々です。

プラも大切な資源

以前からごみの分別には気を付けていました。

毎週月曜日はプラスチックごみの収集日です。

「プラ」と書かれた物の何と多いことか。

あれもこれも「プラ」という感じです。

でも、プラスチック専用袋が出るのは24軒中2軒だけです。

「プラ」も大切な資源ですが、面倒くさいこともあるし、

周知も足りないのかもしれません。

できるだけ細かく見ていこうと思っています。

うれしい声かけ

インフルエンザの予防接種に行って来ました。

昨年入院した病院です。

待合室の椅子に座って順番を待っていました。

人が目の前を通り過ぎたとおもったらくるっと振り返り、

「Sさん!!」と私の名前を呼びました。

私は目が悪くマスクとメガネをかけていたので誰だかわかりません。

着ている服でリハビリの先生だということはわかりました。

席を立ってその人の前に行き、「どなたですか?」と

失礼にもお聞きしました。

「Aですよ」と笑って答えてくれました。

「メガネかけていましたっけ?」と聞くと、

「これはコロナ対策の飛沫防止のゴーグルです」と外してくれました。

目がきれいで特徴があるのでやっとわかりました。

Aさんは入院していた時にお世話になったリハビリの先生でした。

退院して一年半も過ぎているのに、私の名前を憶えていてくれた

ことにびっくりしてしまいました。

毎日たくさんの患者さんのリハビリをしていて、入退院の入れ替わりも

かなりあります。

私も定期的に受診はしていますが、「Sさん、髪切りましたね?」と

言われてもっとびっくりしました。

すごい観察力と記憶力です。

名前を憶えていてくれることは嬉しいものです。

まして、今回のように月日もだいぶ経っているのに名前を呼んで

声をかけてもらえるのはすごく嬉しいものです。

相手を思いやること、気遣いができる人にお世話になれたことに

あらためて感謝の気持ちでいっぱいですが、その気持ちをきちんと

伝えられなかったことをとっても後悔してしまいました。

Aさん、ありがとうございました。

このような方が患者さんを元気にしてくれると信じています。

 

カレーとシチュー

昨年、ふとした不注意から転倒して大腿骨頸部骨折をしてしまいました。

初めて救急車に乗りましたが、あまりの痛さにずっと痙攣していました。

レントゲンの結果、大腿骨頸部が包丁で大根をすっぱり

切ったように真っ二つに分離していて、こんなにきれいに

骨折するものなの?と思いました。

手術したらすぐにリハビリが始まりましたが、

新型コロナウィルス感染がなんとなく騒がれ始めてからまもなく、

志村けんさんがコロナで亡くなったとの報道があり、

とってもショックでした。

家族の面会も禁止になり、エレベーターに乗って他の階に

行くことも売店に行くことも禁止になり、楽しみは何もありません。

毎日のコロナ感染者数が気になる不安な日々が続いていました。

入院して2週間で病室が変わることになりました。

2人部屋でお隣さんは80歳の方でしたが、とても若々しくて

聡明な方でしたので毎日いろいろなことを教えていただきました。

病院の食事はメニューの中から選べるようになっていて、

病院食とは思えないほど美味しかったのです。

お隣さんは、「私はカレーが大好きなのに一回も出ないのよ」と

言うのを何回も聞いていました。

私は病室が変わる前に2回カレーを食べていましたので、

「おかしいなぁ・・・」といつも思っていたのですが。。。

高齢者の食事は少し違っているので・・・とのことでした。

ある日の夕食、病室が変わってから初めてカレーが出ました。

お隣さんはカレーの匂いに敏感に反応して、

「あなた、もしかしてカレーなの?」と聞いて来ました。

私が、「そちらは何ですか?」と聞き返すと、

「シチューなのよ、カレーでいいなぁ」と寂しそうです。

「本当はいけないことだけど、内緒で取り換えてあげましょうか?」

「えっ、いいの?嬉しい。でもあなたシチューでいいの?」

「いいですよ。私シチュー大好きなんです」

「わぁ~うれしい~、ありがとう」

こんな会話でカレーとシチューは取り換えっこになりました。

食後は証拠隠滅のため、食器はお互いの元に返還しました。

今でも1~2か月に一度どちらかともなく電話で連絡を

取り合っていますが、必ず「カレーとシチューの交換」の

話で盛り上がっています。

お互い2カ月ちょっとの入院生活でしたが、痛さにも

リハビリの厳しさにもめげず、毎日笑いながら過ごせたので

歳の差を超えて楽しい入院生活を送れたことが良き思い出です。

 

 

頼もしい兄

昨年能登半島の病院に入院する時、姉一人だけに知らせ、もう一人の

姉と兄には知らせず、スーツケース一つで独り心細い思いで新幹線と

ローカル線を乗り継いで行きました。

行くときは一ヶ月の予定だったのですが、なかなか症状が改善せず、

先生からもう少しもう少しと二ヶ月になってしまいました。

あの頃はコロナ感染の心配もなかったからずっと自由で良かったけれど。

一ヶ月を過ぎた頃、どうしてもやらなければならない用事ができて、

一度だけ外泊許可をもらって家に戻ったのですが、やはり二ヶ月も

入院していると家が心配になっていました。

そんな時姉から電話で、入院していることを兄に話してしまったとのこと。

それでね、「退院する時は迎えに行くから心配するな」だって。

先生から入院を三か月にするようにと言われた矢先でがっかりして

いたから、兄の申し出は飛び上がるほど嬉しかった。

実は、行くときはスーツケース一つだったけれど、先生からリハビリの

ノルマを課せられていたから、リハビリ用の衣類一式と運動靴などを購入

したので荷物は何倍にも増えていたのです。

宅配便で送ることももちろんできたけど、車なら楽です。

こうなると話は早いもので、兄から「いつ迎えに行こうか?」と

電話があり、兄の仕事が休みの日になんとなく決まってしまいました。

先生に退院したいと申し出ると、「せっかくだから三か月いたら・・・」と言う。

今思えば三か月いても良かったのかな?と思うが、あの時は帰ること

ばかり考えるようになっていました。

退院の日、兄は朝3時に家を出て9時にはもう病院に着いていました。

初めての場所なのに、道に迷わず良く一人で来たものだと感心しました。

たくさんの荷物を積んであとは帰るのみ。

でも、せっかくだら・・・と港に寄って、迷わず海鮮丼定食を注文。

それはそれはすごい大きな御膳で、ご飯は半分ぐらい残してしまい

ましたが、さすが港、最高に美味しかった!!

帰路は高速道路をひた走り6時間強かかって自宅に着きました。

1日に12時間の運転、いやいや私の家から兄の家までまた1時間かかるから13時間。

「すごいなぁ~、ありがたいなぁ~」本当に兄は頼もしかった。

能登からタクシーで来たら一体いくらかかったのだろう?

頭が下がる。感謝しなければいけないなぁ!!

とにかく長生きして欲しいと心から願っています。

 

 

助けられた一言

豊かな人生を生きてきたと言っても良いことも辛いこともありました。

私は決して人付き合いが上手な方ではないと思う。

特に攻撃的な人は苦手だ。

人間関係で悩んで仕事も辞め家にいることが多くなりました。

必要最小限の人と接するのが精いっぱいになり、

いわば半ひきこもり的な感じになっていました。

コロナ禍では研修もZOOMで行われるようになったけれど、

コロナがまだ良くわからなかった昨年の一月、

東京のお台場で一泊二日の研修に思い切って参加しました。

一日目の終了時に二日目の演習に使う宿題が出ました。

夕食もそこそこに真夜中まで宿題をこなしました。

こんな筈では・・・こんな研修初めて!

二日目グループ演習時にちょっと辛かった気持ちを口にすると、

仙台の大学の先生が私に一言。

「人には色々なことがありますが、辛いことを乗り越えて

今ここにいるあなたに敬意を表します」

なんだか気持ちが軽くなるような感じがしました。

それまで自分に肯定感が持てないでいたけれど、

生きていることを認めてもらえたような、助けられた一言でした。

今でもその言葉を思い出す度あの先生にとても感謝しています。

人を追い詰めるのも人を救うのも言葉一つなんだと痛感しました。

いつも自分が人を傷つけないように、発する言葉に気をつけたいと思っています。

 

 

亡き友を偲ぶ

高校の入学式の時初めて出会った同級生。

成績も良く、体操の平均台や平行棒なども上手にこなす。

水泳部員が足らず大会には頼まれて出るほどでした。

そのクラスメイトとなぜか仲良くなりました。

2年生になると生徒会長選に出るという。

先生からの信頼も厚かったが、全校生徒を前にして行った

演説はとにかくインパクトがあり、結果ほとんどの票を集め

文句なしの会長に選出されまっした。

高校を卒業してからも親交は続いていました。

いつも元気印で病気とは無縁と思われていたのですが、

電話がある度に「体がだるくてだるくて仕事が大変」という。

病院へ行ったところ、難病で余命5年と宣告されたのです。

それからはご主人の至れり尽くせりの生活が始まりました。

ところが、それからすぐにご主人の癌が見つかり、今度は難病の人が

ご主人の世話をすることになり、わずか数か月でご主人は亡くなった。

こんなことってあるの?

私も仕事の合間に電話したり、メールをしたり、手紙を書いて寂しい

思いをさせないようにと思っていたけれど・・・

ある日携帯に電話したがつながらない。メールも送れない。

どうしたのだろう?と家電にかけたところ、泣いているのがわかった。

「いつ電話がかかってくるか、メールが来るかもしれないといつも携帯を

握りしめていたけど誰からも何の連絡もない、だから解約したの」

「寂しくて悲しくて、孤独でどうしたら良いのかわからない」

「あなたにはこんな私の気持ちなんてわからないでしょう」と言った。

本当に申し訳ない気持ちで胸が苦しくなりました。

5年の余命宣告だったけれど、発病から7年後に他界。

よく頑張ってくれたと思う。

もし子どもがいたらまた違っていたかもしれない。

私もまた子どもがいないので、歳を取ればとるほど寂しい気持ちは募る。

子育てをしてみたかったし、賑やかな家族団らんも夢だったけれど。

今はコロナ禍でもあり、誰もが孤独を感じているかも知れない。

私も今は友人の寂しさが痛いほどわかります。

誰かに気づいてもらいたいのに気づいてもらえないのは寂しすぎる。

こんな時だからこそ、誰かが誰かを一人でもいいから繋がっていれば、

孤独死も防げるかも知れない。

若くして逝ってしまった彼女の分までしっかり生きたいと思うのです。

不思議な縁で今は彼女の妹さんと思い出話ができるようになっています。

彼女がつないでくれた縁をこれからも大切にして行きたいと思っています。